「陰口の定義ってなんだろう」陰口の構造を考察すれば人間関係に役立つ知恵が見えるかも。

実践/雑記

陰口について考えてみた

皆さんは陰口は好きですか?

僕は陰口が戦争の次に嫌いです。

というのは冗談にしても嫌いな序列で言うとかなり高い。

けど陰口ってなんでなくならないのだろう?

昔、陰口がやたら多い女友達と接点があった。
始めはうんうんと頷いていたけど、会話に占める陰口の濃度の高さになんだか可哀想に思えてきた。
仲が良かったけど結局疎遠になった。

そんな昔ばなしを思い出しながら、どうして陰口が不快な気持ちになるのだろうか。
自分も陰口が嫌いだと主張しながら気づかぬうちに同じ過ちを犯しているのでは?

いや、客観的な目線で善悪の判定はするけどそれは陰口には当てはまらないはず。

「じゃあ陰口ってなんだ?線引きが難しい!」

そんなことを考えていた時にテラスハウスに出演していた木村花さんがネットの誹謗中傷が原因で自殺したというネットニュースを見た。

ネット上における誹謗中傷の規制に関して国会で審議されているらしい。

何が批判で何が誹謗中傷にあたるのか、その線引きに焦点が当てられそうだ。

陰口の定義

辞書的な定義を見てみた。

陰口:当人のいない所で言う悪口。かげごと。

さっきも書いたように客観的な目線で善悪の判定を下すことはあるかもしれない。

例えば「A君は酔うと空気を読まずに場を乱すから飲み会に来ないで欲しい」というのはどうだろうか。
発言者であるBの意図としては「A君が酔って場を乱す」という客観的事実から「彼には飲み会で来ないで欲しい」という願望を述べたに過ぎない。

けれどこれを第三者のC君がA君に「君は酔ったら空気を読まずに場を乱すから飲み会に来てほしくないわって〇〇が言ってたよ」とするとどうだろう。

A君は陰口を言われた!と感じて不快に思うか、あるいは僕に対して怒りの態度を示すかもしれない。

Bとしては悪口と意図しなかったものが結果的に陰口として捉えられてしまった。

「陰口の線引きはいったいどこにあったのだろう」

A君が僕の指摘を受け入れた場合を考えてみる

A「(確かにこの前の飲み会は飲みすぎたかも…)そっか、次からは気を付けるって言っておいて」

この場合Aは内心では
(この野郎、俺の陰口叩きやがって)と反感をかっているかもしれないし
(ぐうの音も出ない指摘だ…反省しよう)と思ってるかもしれない。

もしAが後半のような感情を抱いていたら陰口は成立しないはずだ。“批判”ととらえるのが妥当かもしれない。

なるほど、Bの発言に対してAがどのような感情を抱くのかという点は重要かもしれない。Bが客観的事実だと一見思っていることと、A君が認識する事実との間にズレがある程A君は「そんなことはない!」と憤慨するだろう。

根拠が客観的に受け入れがたい場合を考えてみる

例えばB君の「Aはキモオタだから飲み会こないで欲しい」という発言を第三者のC君が伝えたとする。

A君は(確かに僕はキモオタだ…飲み会に行くのはやめよう)と考えるかもしれない。

この時A君は自他ともに認める「キモオタ」であることは事実であっても、陰口であることは明らかだ。

認識のズレがなかったとしても陰口が成立しそうだ。

なるほど、陰口というのは発言者の意図だけでなく、周りとの関係によって成立するのかもしれない。陰口がはらむ問題は複雑そうだ。

陰口の構造

再び今度は怒りっぽい性格のA君とそれによって悩みを抱いているB君を考える

A君から受けるストレスを解消するには直接B君が不満を訴える方法がある。

物事が単純でないのは、この時B君は不満をぶつけることによってA君と争うストレスと今現在抱えているストレスとの比較するからだ。

A君と争うストレス>B君の現在のストレス

この均衡が崩れて初めて、A君に直接不満を訴えるという手段を取るだろう。

次の一手としてB君は

  1. 自分の中で抑え込む
  2. 他の誰かに愚痴をする

という選択肢が取れる。

B「Aは怒りっぽいから嫌いだ」

ここで登場する第三者のC君の共感を得られればB君のストレスは緩和するかもしれない。

世の中のC君がみんな「確かにそのとおりだね」と共感を示してくれるマザーテレサばかりなら世の中はどれほど平和になるだろう。

が、現実的には世の中のC君は次の一手を取りうる。

  1. A君に「Bが怒りっぽいから嫌いだって言ってたよ」と密告するパターン
  2. 第2、第3のCに「Aは怒りっぽいからBが嫌ってるらしい」と広めるパターン

いずれの選択肢も地獄が待ち受けているのが目に見えるが

①はまだ救いの余地がある。

1番最初選択肢だった“直接不満を訴える”という場がCを媒介に設けられただけなのでふりだしに戻ったようなものだ。

ただしCは余計なお節介をしたことで周囲からの批判にさらされるか、Bに批難されるオマケ付だが。

最も悲惨なのは「Bがお前のことなんか嫌いらしいよ」ともとのニュアンスが捻じ曲げられて伝えられるパターン。

Aにとっては陰口以外の何物でもなく、3人を待ち受けているのは不幸のみである。

②もそれと同じパターンに陥りうる。第2,第3のCを介してるうちに情報が歪曲していくからだ。しかも経験上ネガティブな情報はよりネガティブな情報に捻じ曲げられることが多い。ありもしない事実が噂話となって独り歩きしだす。(BはもうAと絶交するってよ)

いずれ第n番目のCによってAの耳に入ることは避けられない。察しの通り地獄である。

この構造上の問題はどこにあって、どう解決するべきか?さらに深堀してみたい。

ヒントはアドラー心理学にあった

アドラー心理学は一世を風靡した著書、嫌われる勇気で知った。

僕はこの構造を考えたときアドラー心理学の課題の分離を思い出した。

人の悩みの99%は対人関係にあって、自分の力の及ぶ範囲と相手の課題を明確に分けることによって悩みの解決を実践するというものだ。

対人関係の悩みを払拭するにはアドラー心理学の考え方はうってつけだと思う。

Cの立場なら

あなたがCの立場なら話は単純だ。そもそもAとBの課題なのだから、課題の外にいるCが問題の解決を図るのは無駄だ。

しかし次のようなケースだとどうだろう。

Aと親友のCはAの恋人であるBの浮気を知った。
CはBの浮気の真相を伝えるべきか。

アドラー心理学においては自分以外の課題として介入しないのが正解だ。

しかし中には湧き上がる己の正義感が黙ってない人もいるだろう。あるいは悪魔的な好奇心から密告する人もいるかもしれない。このような課題の介入は問題をより複雑にする。この先を考え始めると際限がないのでこの辺でやめておこう。

愚痴を聞いてもその場だけ取り繕うことができれば吉だ。

Bの立場なら

あなたがBの立場ならAに直訴することは相手の課題に介入していることになり、やはり悪手だということが分かる。

そのうえで、自分の課題を解決するために第3者に愚痴るという方法はアドラー心理学的には間違っていないのではないか。

むしろ他人の課題を尊重しつつ自分を守る賢い選択のように思えてくる。

僕なりの見解を上乗せするなら、Bのストレスが直接Aによってもたらされるのであれば、Bの陰口も許容されるべきかなと思う。

例えば、Aがモテるのが気に入らなくて「Aのやつムカつくな」と陰口を叩く。何か直接的な不利益をもたらされたわけではないのにこのような陰口を叩くことは許容しかねる。

自分の心の中にだけ留めておくことがベターだ。
ましてやこのような根拠があいまいな批判こそ、第三者にとっても不快なものになりうるので気を付けたい。

Aの立場なら

あなたがAの立場なら何も気にすることはない。アドラー心理学によれば、自分の生き方を他人の欲求に従って生きてはいけないとはっきり批判している。自分が自分の欲求に従って生きなければ、誰か自分の人生を生きてくれると言うのかと、そのような他人は存在しないと主張する。

もしBやCのような人間が介入してくるのならば嫌われる勇気を発動する時だ。自分の欲求に疑問を持つ必要はない。

他人の権利や自由を侵害しない範囲を見極める必要はあるけれど。

おわりに

このように構造を把握することができれば、問題の解決は思ったよりもシンプルだ。陰口そのものが悪というよりも、実は構造上の問題なのかもしれない。

しかしインターネットの登場によってこの構造はもう少し複雑になっているらしい。
冒頭でも触れた通り、ネットという仮想空間上で匿名という盾を手に入れたことによって見えないところから相手を攻撃することが容易になった。

批判と誹謗中傷のラインを考えない人たちによってインターネットを使う人ならだれでも彼らの攻撃に晒される危険がある。

もちろん他人の言論に対する批判は言論の自由で保障される。無責任な論は批判を受けて然るべきだが、どこからが誹謗中傷になるのか、一人一人が今一度考えてみる時だ。

SNS等における言論がどのように規制されるのかを見守りつつも、一人一人のネットリテラシーがどのように変化していくのか興味深い。

いずれにしても、構造がさらに複雑化する社会において嫌われる勇気という盾はこの先も役に立つことは間違いない。

この記事の著者
LUIS

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